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宇宙人

今日は、最高点が252点になった!

先週219点が出てからも、180点台がせいぜいだったのに、
今日は200点代の点なら何回も出た。

タコが速くなってから逃げる時の、
集中力しながらも頭が無になる感じが楽しい。

もっと感覚を磨くぞ!

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山崎ハコの歌を初めて聴いた。
凄い!
ここまで人間の心の暗の面をストレートに歌うなんて。
「呪い」なんてストレート過ぎる!
でも、私の中にある「呪い」を剥ぎ取られる。
剥ぎ取られるのは、何故か心地よい。
だから、思わず笑ってしまった。
私の心が喜んでいる・・・。

心に漣が起こる。ドキドキする。
夜、部屋で一人でどっぷり聴く。
何故かとても癒される・・・。

リアルタイムで聴けたはずの世代なのに私は聴いていなかった。

フォークでも、「トワエモア」とか、「赤い鳥」とか、綺麗な声で、明るい世界の歌ばかり。
オペラなら、ジェシー・ノーマン、グルベローヴァ、バルトリ、カサロヴァ、
ポップスならライザ・ミネリとかウテ・レンパー、ホイットニー、ミルバ・・・、
加藤登紀子や、越路吹雪、高橋真梨子、ドリカム、平原綾香・・・。
みんな圧倒的な歌唱力で歌う、上手い歌手ばかりを好んでいた。
強い声に憧れていた。

昔の中島みゆき、研ナオコの歌も聴く。
歌い上げるような歌じゃない。声じゃない。
心の中の悲しさ、苦しさを、たんたんと歌う。

お洒落なかっこいい歌じゃない。
かっこわるい自分を素直に歌っている。
心の中の叫びを、かっこつけることなく歌っている。

でも、心にぐっとくる。

だから、心に沁みてくる。

それは、悲しい気持ち、寂しい気持ちを見つめること。

それが歌。

その気持ちを歌に乗せられるようにすること。

そこから歌を始める。

歌の基本がはっきりみえた。
なんか、私の心が嬉しがっている。
エネルギーが沸きあがってきた感じ。
こんな気持ち始めてかも・・・。

今まで諦めていた。
私のクラシックの癖は取れるはずないって。
おぞましい震えはこびりついたままだって。

でも、もしかしたら、私の新しい歌がはじまるかも。
そんな気持ちが芽生えてきた。




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昨日は、父と新宿の病院に行った後、
映画も観てきました。

「もがりの森」今年カンヌ映画祭で賞を取り話題になった、河瀬直美監督の映画です。
生きること死ぬこととはどういうことか。
その境目は境界線があるのではなく、繋がっているのではないかということ。
遺された者、逝ってしまう者のあいだにある結び目のようなもの。

奥さんを33年前に亡くして、思い出の中にいる認知症の老人と、
子供を事故で失って、自分を責めている若い介護師が主人公。

老人は死んだ奥さんの世界のなかへ、深い森の奥へ奥へ入り込む。
奥さんの思い出とともに土を掘り返す老人。それを助ける看護師。

奥さんの形見のオルゴールが森の空気と光の中で、幸せな響きを紡ぎだす。

映画の最初では生きていても死んでいるかのような二人が、
生き生きとした表情を見せ、最後は土の中で安らいでいく。
土になかに身体を横たえるとは、大地とともになる温かさがあるのだと
感じさせられた。

自然とともに、生をより感じ、死をより感じる映画でした。

監督は認知症をテーマしているのではなく、あくまで、
生きながら現実と向こうの世界を行き来している人として描き、
老人を温かい目で見つめていました。

生の実感とはなんなのか。
人と人との繋がりなのではないか。
そして、命は自然の中で生まれ、自然に帰っていく。
そのことを強く感じさせられる映画でした。

父はとても喜んでいました。
「全部がよかった。特に最後が。」と。
私もこの父との時間を大切にしようと思いました。

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今日は、父と家庭裁判所に行った。
実は三日くらい前から、プレッシャーで、
何をしていても楽しめずに落ち着かない日々だった。
どういうふうに説明しようとか、何から話したらいいかとか、
頭の中で、これだけは話そうとかグルグルしていた。
父が急に行かないと言いださないかとか、変な心配ばかりし、
憂鬱な気持ちがお腹の中にたまっていた。
だから、食欲もなくなるし、力もでなくなっていたし、身体も動かなくなっていた。

プレッシャーはかけられるのでは、流されるばかりだ。
私はもっと強くならなければいけない。
甘い自分にプレッシャーをかけ、自分を鍛えなければいけない。
プレッシャーは嫌がるのでなく、楽しんだほうがいいこと、少し見えてきた。
心配より、どんどん行動し、とにかく進んでいくことだった。

父は、4日前に話したときは反発して「行かない」といったのに、
今日は「あんまりいきたくないけど」とはいいつつ、素直に行ってくれた。
調査官の人も威張った感じの人かと思ったら、
とても低姿勢の人で、第一印象で、ほっとできた。
この人となら、話ができると思った!
怖いところじゃないじゃん!
食欲ないほど緊張してきたのに、うそみたいだった。

父に対しても丁寧にわかりやすく説明してくれたので、
大筋は納得してくれたようだ。
本人の不利益になることでなく、本人の財産が守られるには
一番いい方法なのだということも、だいたいは理解したようだった。

今、私は、父のおかげでめったにない経験をしている。
この経験は、嫌がるのではなく、怖がるのではなく、楽しんだ方がいい。
でも、まだまだ私は、怖がりで、楽しめてなかったな。
怖がらずに、気持ちを強くもって、強い信念を持って、
あたって砕けろなんだってわかった。
もし砕けたら、また立ち上がればいい。

今までの私は、面倒くさいことからすべて逃げてきたから、
最初は面倒な申し立てを嫌がる自分がいた。
でも、今は違う。
こうして、進んできた時間のなかで、いいことばかりが起こった。
介護認定も受けられ、家も綺麗になり、父の頭も刺激ではっきりしてきた。
父にも私にとってもいいことばかりが起こっている。

前は父に反発されることだけを嫌がり、怖がり、向き合うことから逃げていた。
でも、いくら面倒なことだって、それが父への愛情なんだってわかった。
ぶつかり、喧嘩することが悪なのではない。
無視して、ほっておくことが悪であり、愛情の無い行動だ。
その気持ちは通じるから、父の態度もちゃんと変わってきている。
反発もされるけど、わかってくれることもある。
その繰り返しだ。
流されずに、反発することも計算に入れて、上手に折り合いさせて、
ペースをこちら側でつくれるようになることだ。




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ヘッドフォンで自分の声を聴きながら歌う。
先週からはじめたので、今日は2回目。

歌いながら聴いている自分の声と、その後録音した声はかなり違う。
録音したものは、客観的に冷静に聴けるので、自分の悪いところがよくわかる。
力んで叫んでいるし、大声になったかと思えば、
まるで支えがない声で、ただ弱くなったり、全体の統一感もなくて、
行き当たりばったりで、雑な歌い方なのが、自分でよくわかった。
私の雑さ加減が出てるんだなとつくづく思った。

「力を抜いて、楽に気持ちよく歌ってみて」と言われ、
いつもの感じより、声を小さくして、楽に歌ってみた。
そうすると、アンジェラ・アキの声もよく聴けるようになり、
声を似させるのも楽だし、一緒に歌っているのが、気持ちよい。
自分では鼻にかかった声に感じ、この声を出していいのか
よくわからなかったけど、それがマネのようにも思った。
この声で出していいかは自信なかった。
前は、口先で小さく歌うと、完全に裏声だったので、
高い声を小さく出すのが怖かったのだ。

でも、それを録音したもので聴いてみると、
確かに、その前に力んでいた時より、流れがまとまってるし、聴きやすい。
それだけ、いつもは力んで、聴いていてうっとおしい声になっているのが
よくわかった。

でも「綺麗」に歌えるように声の調整をするだけでは、
気持ちいい歌にはならない。
歌にこめる気持ち、歌にある悲しさを歌うには、
私の中の怒りを見つめよう。
私の歌には怒りが足りない。

そして、怒りを意識してみたが、変にまた力んでしまい、叫んでしまい、
また歌にならなくなった・・・。
自分流の下手な声。
歌は難しい。
まだまだ楽しむ気持ちまでは出てこなかった。
もっと歌に取り組んで、歌に変化がでるまで工夫できるようにしよう。

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相手に自分がキレるのは、相手が悪いのではない。
相手の行動が惚けていようが、それはいつものことなのだ。
相手に悪いところが本当にあるのなら、ただ冷静に叱ればいい。
自分の中にたまっている不満が爆発している。
相手の所為にしているが、実は、自分のなかのイライラだ。
自分の中の問題をちゃんと省みることだ。
自分の中の、リズムと流れを測り、冷静に自分を見ることだ。

相手がむかつく態度をしたときも、見ぬふり、聞かぬフリが一番悪い。
相手を無視するということは、自分自身をも無視するということ。
相手への無関心、無視は、自分を惚けさせ、身体の中に病魔が生まれる。
人間同士の素直なコミュニケーション。
「どうして、そういうことをするの?」
素直に、そう聞いてあげればいい。
そうしてしまう、そう行動してしまう、理由を聞いてあげることだ。
それが、人と人とのふれあいだ。
これが、聞けないために、人は無視し合い、心が離れていく。

父が今度そういうことをした時は「変人!」と責めるのでなく、
ちゃんと聞こう。
「どうして女物を着るの?」

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どうして素直に楽しめないのか?
どうして素直に喜べないのか。
そこんとこを深く悩んで考えたほうがいい。
そこから逃げるから、何やっても面白くない。
何やっても気持ちよくない。
何やってもとことん追求できない。

自分を好きになることだった。
ずっと自分が嫌いだった。
この何年間はそのことも、振り返ってきたのに、
まだまだ自分を好きになろうとしなかった。
嫌いな自分をそのままにしていた。

病気は絶対に治りたかった。
自分の卵巣も子宮も守りたかった。
だから、自分で自分を治そうって、本気で決意した。
自分の身体を細胞で感じ、治癒力を信じ、自分自身を見つめた。
だから頑張れたし、治すことができた。

でも、病気が治って、体力もついてきたのに、今の自分は怠けている。
自分の身体も心も大事にしようとしていない。
自分の身体、心を見るということは、自分を知り、
自分を好きになることではないか。

それなのにいつまでも、自分を嫌っているというのは、
自分の心、身体を見てあげてないとと同じだった。
いつでも感じ、自分を測り、自分の状態を知るというを実践していく。

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昨日は父を誘って映画を観に出かけた。
「ボルベール(帰郷)」
私の好きなアルモドバル監督。

スペインのあの大胆な強い色彩感覚が前からとても好きだ。
登場人物の強烈な個性とユーモアも好きだ。
今回の映画は、いつもの騒々しさは無く、暗いトーンだったけど、
でも、母の愛、親子の確執を経た愛、女の逞しさ、強さは、とても感銘を受けた。
ペネロペ・クルスの強い目は哀愁を湛えていて、それだけで苦しみを感じられた。
そしてその豊満な胸は、女の魅力もとともに、逞しさをも象徴してた。
ペネロペがタンゴを歌うシーンが一番圧巻だった。
おもわず、涙がこぼれた・・・。
(こんなふうに歌が歌えたら・・・とも密かに憧れた・・・)

近親相姦がテーマになっていて、男達は殺される。
法では、裁かれることだが、この映画の最後では、娘も母も捕まらない。
そして主人公の母は、
夫と一緒に焼き殺した浮気相手の娘(隣人)がガンだと知った時、
その最後を愛情深く看取る。
悪だけが法としてではなく、人としてのレベルで裁かれ、全てが闇から闇。
愛情だけが残る。
重いテーマのなかに、ユーモアもあり、人情もあり、
人生を生きるとは、「愛情と逞しさ」なのだとあらためて感じた。

でも映画館を一歩でれば、まるで楽しくない。
父はこの映画は、会話だけで映像が無い場面も多いし、
内容自体が理解できなかった・・・。
もっと単純な映画を今度から誘おう・・・反省。

やはり、私の中で「一緒に誘ってあげる」がある。
積極的に父と楽しもうが無い。
だから、自分が好きなものを選び、父が理解できるかが無かった。

私の中に不満がつまっている。
つい苛つく。
私は優しいフリをして優しくない。
でも、もっともっと父と会話していこう。

・・・そう反省してたので、
今日は少し落ち着いて、「老人ホーム」の話ができた。
嫌がっているけど、話は聞いてくれた。
まだまだだけど、反発されても、覚悟できてるから平気。
この調子だ。

でもまた帰りに違う些細なことで、ついつい怒鳴ってしまった・・・。

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生き方が、やることなすこと全て、「雑」だった。
人を雑に扱ってるから、自分も雑に扱われていた。
人を大事にしないから、自分を大事にすることもできてなかった。
人の言うことを雑に聞いているから、流されてもきた。
深く考え悩もうとしないで、いいかげんなままに、とぼけて生きてきた。

人との関係を雑に考え、きちんと向き合おうとしないから、
無視したり、失礼をして、傷つけてしまう。
雑に扱う態度、とぼけた態度が相手を怒らせてしまう。
あたりまえだった。
そんな自分だから、誰からも相手にされない。
親にも、夫にも、関わっている人みんなと丁寧に接していこう。

物事を雑にしか見れないから、物事を追究できてない。
雑で考え無し、感覚を研ぎ澄まそうとしないから、
いいかげんにしか生きてない。
絵をつきつめて描けないのも、頑張れないのも、雑にしか見てないからだ。
すべてをいいかげんにしてるからだ。

丁寧に見て、丁寧に描いていくことをしていこう。
音の一つ一つを丁寧に聴いていこう。

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何をやるにもいいかげんで、追究していこうとする心が足りない。
興味をもって歌について勉強することもしてなかった。
上手くなるのはどうしたらいいか自分で工夫しようとしてない。
曲を聴いて、細かい歌い方まで正確に聴きとって、吸収しようとしていない。
いいいかげんにしか聴き取れなかった。
何回も聴いていても、結局は自分の思い込みの表面だけしか聴けなかった。
音の一つ一つにこだわる聴き方ができていなかった。
何回聴いても、聴いてないのと同じだった。
正確に聴いていないのだから、少しも真似できてない。
真似できないのではない、真似して吸収しようとする心が無かった。
真似できるはずがないと思い込んでいる。
いくらやっても、下手くそなままの自分流。
変われないのは、そういう頑な心が原因だった。

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